神谷尚孝

KAMIYA Naotaka


作家の言葉

古代讃歌

木の芽を喰い動物を追っていた
人間達は将しく人間の原形。
神の像のイマーゴだった。
静謐で真青な古代の空を僕は奔放自由に
天架ってみた。
奥深い時代の人間洞察により
混沌の空冥に鋭い示唆を得よ。



1924年 静岡県生まれ
1947 帝国美術学校油絵科卒業(現武蔵野美術大学)
1952 東京美術学校彫刻科卒業(現東京芸術大学)
1954 七彩工芸勤務
1972 東本願寺金属衝立制作(向井良吉さんと共に)
1973 NHKホール金属緞帳制作ディレクト
個展
1972 サトウ画廊(銀座)
1974 美術家会館(銀座)
1985 愛宕山画廊(銀座)
由美画廊(浜松)
1987 ぎやらりいセンターポイント(銀座)
浜松市立美術館
1994 紀伊國屋画廊(新宿)
1996 紀伊國屋画廊(新宿)
出展
1951〜52 新制作協会展
1952 毎日美術団体連合展招待
1954 行動美術協会展
1975 第6回現代日本彫刻展〈宇部)小品展
1999 陶「超」展’99−遥かなる記憶ー
(ぎやらりいセンターポイント・銀座)
2000 〈PLUS et MOINS〉展
(ぎやらりいセンターポイント・銀座)
   
現在 日本美術家連盟会員[無所属]












 

 

 


画像をクリックすると拡大してご覧になれます


各76×20×20
遙かなる人
信楽荒土炭化還元焼〆め
















  
久我山燒に寄せて

   加藤 貞雄    

 黒い肌の焼締めによる陶彫にひそかに打ち込んでいた 神谷尚孝が、四十年近く住んでいる久我山の地名をとって 「久我山燒」と称し、成果 を初めて世に問う。
 戦後の美術に新しい風が吹いていた若い頃、抽象彫刻の 気鋭の作家だったこの作者は、事情があって久しく発表活動 から遠ざかっていたが、六十歳を迎えるころから制作を再開した。
 それらは、粘土で原型を作り、石膏に抜き、硬質樹脂で仕上げた 極めて計算の行き届いた、構築的で精巧な抽象彫刻で、永い ブランクを感じさせない現役復帰であった。ところが、神谷は、 忽然と焼きものに向かって突進し始めたのである。珠州の 古陶に触発されてのことだという。成型と焼成の習熟にはげみ、 ガムシャラに作った。

 肌は、黒いが黒陶に非ず、もちろん器物に非ず。ひも作りに よるバラエティに富む「久我山燒」に、作者は、遥かな古代への 思いをこめる。エネルギッシュで縄文的、端正で弥生的、また、 野性的、時にはユーモラスに。
 ずんぐり丸い「石敢當」横一文字の割れ目がシャープな球形の 「丸石神も叫んだ」おおらかな曲線が盛り上がった「シャーマン」 陣笠に丸い穴があいた「村長」「空冥」…
 そこには、呪術的な祈り、土俗的な素朴さ、おおらかな情愛など、 古代のさまざまなイメーが交錯する。いずれも、焼き物の制約 ぎりぎりのところで土を生かした力わざだ。
 真に自由な造形精神の発露を「久我山燒」に見た。

                                     (美術評論家)  


[RETURN]