福島修子の「七面鳥の資料室」や「鳥の資料室」や「鳥」など“鳥”シリーズの画面
をご覧いただきたい。何処に鳥がいるのか?紺碧と淡青と群青の溶け合う空間に、時折鮮烈な朱赤と淡紅色の不定形な色面
が、火山の爆発かと思わせるような火焔となって燃えあがる。まるで抽象表現主義の作品を見ているといった印象を受けるのだ。もう一度心を静めて画面
を眺めよう。なるほど、なにやら鶏冠や嘴(くちばし)や眼や翼らしき映像が、この青一色の空間に浮かび上がってくる。
近作の「あらいくまBallade」の画面を見てみようか。肝心のあらいぐまは何処にいるのやら。視覚に捉えられるのは、濃紺のモノクロームの空間に、頭とも尻尾ともつかぬ
異形のフォルムがうずくまり、重なり、うごめくさまだけである。遠目にはほとんどアンフォルメルの青い抽象空間が夜の暗闇か地の奈落のように横たわって見える。
どうやら福島修子は鳥やあらいぐまの外観を描くのではなく、これら小動物の生命形態学的な形姿を借りて、絵画空間に精神の不安と緊張と動揺のムードを醸しだそうとしているらしい。複雑に揺れ動く心理状況を画面
に反映させたい。平凡な日常性に満ちた時の流れの中で、喜怒哀楽のさまざまな情念が浮き沈みする。
その情念の動きを身近な生きものの形姿を借りて表現してみよう。それには鳥が応わしい。
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色彩もフォルムも動きも、その全体像が眼と心に愛らしさと共に、妖しい美しさを、怪奇さとユーモアを、さらに幻想さえも与えてくれるような鳥がいい。例えば七面
鳥のような鳥。南国の鳥。あるいはマックス・エルンストが超現実の風土に彼の分身として描いた怪鳥ロプロプのような鳥でもいい。
夜の闇か奈落の底か、青一色の空間に、静と動のはざまで、凝然とうずくまる鳥は、それでもなお飛翔を夢見て微かな動きをみせる。線描がさざ波のように揺れ、泡のように膨らみ、フォルムが空間に充満する。幾つものあらいぐまがひと塊りになって空間に生の鼓動をうつ。膨らんだり縮んだりしながら....。画家の情念の動きを伝えるかのように....。色彩
もフォルムも線描も揺れ動き、空間に精神の緊張と不安のムードをつくりだすのだ。
福島修子は鳥を描く。鳥を描きながら鳥に感情移入をする。精神の逼塞(ひっそく)状況に満ちた日常性という名の地上から非日常の超現実の世界へ鳥に変容して飛翔する。かと思うとあらいぐまに変容して地上の森に舞い戻り、大地の匂いを嗅ぐのである。自然との調和と共生の夢を、鳥とあらいぐまに託し、日常と非日常の世界を自由に往還するのである。
(美術評論家)
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